イデア

和食の長所、和食に伝わる心、生命の尊重などについて

シュバイツァーの名言をもとに動物愛護について考える

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 シュバイツァーの名言

「わたくしは、生きようとする生命にとりかこまれた生きようとする生命である。」

 

「人間は、助けうるすべての生命を助けたいという内的要求に従い、何らか生命あるものなら害を加えることを恐れるというときにのみ、真に倫理的である。」                                    

                       『文化と倫理』より 

 シュバイツァーは、アフリカ奥地における長年にわたった献身的医療奉仕活動とともに、生きとし生けるものに対する愛を説く「生命への畏敬」の思想を体系化したことでも知られている。

             

「生命への畏敬」とは、単に人間の命のみならず、広く生きとし生けるすべての命をいとおしみ、大切にしていこうとする思想である。

これらの業績が高く評価され、1952年にはノーベル平和賞を受賞した。

 

私たちの食生活と生きもの

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。

私たち人間の生命そのものが、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

それゆえ、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、私たち人間にとっては、宿命的に背負わされている課題である。

 

この問題の根本的解決は、いつの日か科学技術が高度に発達し、動物性栄養素(タンパク質など)の人工的合成や培養、およびその普及が実現する時まで待たなければならないのかも知れない。

 

ともあれ、現在を生きる私たちが、夢・空想ではなく、現実の問題として自らの食のあり方を考えるとき、生きものの命への配慮とともに、自らの健康・栄養への配慮も必要である。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである。たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たないもの」・「身体の外にあるもの」であるとして、世にベジタリアンと呼ばれる人たちの大部分も、これを食することを容認している。

 

また、乳製品と卵に加えて魚介類をも食する人たちは、「シーフード(フイッシュ)・ベジタリアン」と呼ばれることがある。また、乳製品と卵に加えて鶏肉を食する人たちは、最近では「チキン・ベジタリアン」と呼ばれることがある。

 

こうしたベジタリアンおよびセミベジタリアンの人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。 

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防する健康食として、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

ブッダの名言のもと動物愛護について考える

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ブッダの名言

 「かれらも私と同様であり、私もかれらと同様である」と思って、わが身に引きくら

べ、生きものを殺してはならぬ、また、他人をして殺させてはならぬ。

         『ダンマパダ』より

「あたかも、母が己(おの)が独り子を身命を賭して護るように、そのように、一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし。」           

         『スッタニパータ』より

               

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。

 

私たち人間の生命そのものが、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

それゆえ、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、私たち人間にとっては、宿命的に背負わされている重い課題である。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである。

 

たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たないもの」・「身体の外にあるもの」であるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

   

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

 最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防するものとして、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

 

 

 

人種・民族間の差別・偏見の解消に向けて

私たち人間は、すべて、人間であることそれ自体において、侵すことのできない尊厳と価値を持っている。

それゆえ、私たち人間の間では、いかなる差別も偏見も許されないはずである。なぜ、差別や偏見が許されないのか、いまここで、次のような視点からアプローチしてみることも必要であろう。

 

私たちは、生まれるときに、どの人種、どの民族に生まれるかを、あたりまえのことであるが、自ら選ぶことはできない。私たちは、生まれた後、やがていくつか年齢を重ねてから、自分が属する人種・民族を意識するのである。

 

つまり、自らが属する人種や民族は、私たちの選ぶことのできないものとして、それゆえ、好むと好まざるとにかかわらず、他律的に運命として与えられるものである。

 

人種・民族というものが、そのように、自己の選ぶことのできないものとして、したがって自己の責任の及ばないところで他律的に運命として与えられるものだという事実だけからしても、そのことが、なんらかの差別や偏見の根拠になってはならないことは明白である。

 

しかるに、現代社会には、人がどの人種、どの民族に生まれ、属しているかという、ただただそれだけの理由からの差別や偏見がいまなお随所にみられる。

 

これこそ、まさに、「いわれのない差別・偏見」と言わざるをえないだろう。

近づく培養肉(人工肉)の開発・普及

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マスコミでも報じられているように、培養肉(人工肉)の開発が、欧米を中心に進み、これを生産・販売する企業もできているという。そして、10年後には、私たちが、これを当たり前のように食べる時代が来るかもしれないという。

 

培養肉(人工肉)は、動物の幹細胞を培養・増殖してつくられる肉のことである。動物から幹細胞だけを取り出して、これを培養・増殖してつくられるものであるため、動物の命を犠牲にする必要がない。

 

また、無菌の空間で厳密な管理のもとでつくることも可能であるため、衛生面で評価できるうえ、家畜を飼育するのとくらべて環境・大地・水への負荷も低い。

 

さらに、今後の技術の進展によって、消費者のニーズに応えるような、よりヘルシーでより食べやすい肉を大量生産できる可能性も秘めている。

 

動物の命を犠牲にしないという意味で、倫理的・人道的な肉である培養肉(人工肉)が、私たちの食卓にあがる日が近づいているのかもしれない。

 

私たちの食生活への影響

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。私たち人間の生命そのものが、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

それだけに、私たち人間にとっては、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、深慮しなければならない重い課題である。

 

こうしたなかで、すでに欧米を中心に進む培養肉(人工肉)の開発・普及こそが、こうした課題に応えるうえで大きな役割を担っている。 

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

       

 

 

和食に伝わる心・精神

日本列島の四季折々の恵みと日本人の信仰心や自然をめでる心が絡み合って生まれた和食文化の伝統には、生きとし生けるものへの優しさが脈々と受け継がれている。

 

日本列島は、湿潤な温帯に属し植物の生育にきわめて適している。日光は強すぎず弱すぎず、しかも、一年を通じて適当な降雨があり、世界でもっとも農耕に適した地域の一つである。また、暖流と寒流とがぶつかり合う豊かな海に囲まれていて、魚介類にも恵まれている。

 

こうした恵まれた環境にあって、日本人は、その歴史のなかで、穀物や野菜、それに魚介類への依存度の高い独自の食文化を築いてきた。日本人の食生活において、肉類が長い間広く普及しないできた背景には、さまざまな要因があるものの、日本列島の地理的環境が穀物や野菜・魚介類の供給に適していたことが大きくかかわっている。

 

 このことは、低温・乾燥の度が強く、穀物・野菜の生産にあまり適さず、牧畜・肉類に大きく依存せざるを得なかった欧米の食文化とは対照的である。

 

わが国の歴史をさかのぼってみても、こうした食をめぐる恵まれた状況のなかで、仏教とともに伝来した殺生禁断の教えも、すなおに人びとの生活に浸透していった。 天武天皇の肉食禁止令以降、度重なる殺生禁断の戒律が国策として普及していった。また、古くから民間に伝承されていた民俗的タブーのなかにも、肉食を禁忌とするものがみられた。

 

もっとも、これらの禁止令やタブーは、生きものの種類によってはこれを除外し、その影響が及んだ度合いも、地域によって、時代によって、あるいは身分や階層によって一様ではなかった。しかし、全体としてみれば、肉類への依存が少ない食生活が人びとの間に広く定着していった。

 

やがて、禅宗の精進料理の影響を受けて発達した懐石料理も、日本人の食文化を形づくる一つの柱となった。江戸時代になると、鎖国政策がとられたことによって、鶏肉は除く肉食忌避の風潮が助長され、和食のもつ独自性が保ち続けられた。

 

こうして、明治に至るまでの日本人は、獣肉への依存度の低い独自の食文化を定着させてきた。牧畜・獣肉への依存度の低い日本人の食文化の伝統は、世界的にみてもかなり珍しいものなのである。

 

食材に感謝しつつ、箸を使いこれをつつましやかに食する和食の伝統には、生きとし生けるものへの優しさが受け継がれている。 

 

もちろん、食材の欧米化・グローバル化が急速に進む今日の状況のなかで、和食にも、それらの食材を取り入れて改善するべき点がないわけではない。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じて、さまざまな種類があるということである。

 

たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

 乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たないもの」・「身体の外にあるもの」であるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くも、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

ここには、日本人古来の食への思いが、今風に形を変えて生かされているといえるだろう。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

 最近では、和食に伝わる、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防する健康食としても、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

      ガンジーの言葉

私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、「生きものの食べ物は生きもの」という言葉には、深慮するべき意味がある。  

                      『ガンジー語録』より

 

 

 

和食の良さ・メリット

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わが国は、長寿国として世界的にも知られている。長寿のカギが、伝統的な日本食にあることは、これまでも様々に指摘されてきているが、最近の、東北大学大学院の都築毅准教授のグループの研究も、その一つである。

 

グループは、1975年の平均的な家庭の献立と2005年のそれとを比較し、その間に、日本人の献立は、魚介類は3割減り、肉類は5倍に増えたことを指摘している。その上で、長寿のカギは、肉類への依存度の低かった1975年ごろの伝統的な日本食に立ち返ることにあると説いている。(朝日新聞2014年9月24日朝刊より)

 

日本食の伝統

日本列島は、湿潤な温帯に属し植物の生育にきわめて適している。日光は強すぎず弱すぎず、しかも、一年を通じて適当な降雨があり、世界でもっとも農耕に適した地域の一つである。また、暖流と寒流とがぶつかり合う豊かな海に囲まれていて、魚介類にも恵まれている。

 

こうした恵まれた環境にあって、日本人は、その歴史のなかで、穀物や野菜、それに魚介類への依存度の高い独自の食文化を築いてきた。日本人の食生活において、肉類が長い間広く普及しないできた背景には、さまざまな要因があるものの、日本列島の地理的環境が穀物や野菜・魚介類の供給に適していたことが大きくかかわっている。

 

このことは、低温・乾燥の度が強く、穀物・野菜の生産にあまり適さず、牧畜・肉類に大きく依存せざるを得なかった欧米の食文化とは対照的である。

 

わが国の歴史をさかのぼってみても、こうした食をめぐる恵まれた状況のなかで、仏教とともに伝来した殺生禁断の教えもすなおに人びとの生活に浸透していった。天武天皇の肉食禁止令以降、度重なる殺生禁断の戒律が国策として普及していった。また、古くから民間に伝承されていた民俗的タブーのなかにも、肉食を禁忌とするものがみられた。

 

もっとも、これらの禁止令やタブーは、生きものの種類によってはこれを除外し、その影響が及んだ度合いも、地域によって、時代によって、あるいは身分や階層によって一様ではなかった。しかし、全体としてみれば、肉類への依存が少ない食生活が人びとの間に広く定着していった。

 

やがて、禅宗の精進料理の影響を受けて発達した懐石料理も、日本人の食文化を形づくる一つの柱となった。江戸時代になると、鎖国政策がとられたことによって、鶏肉は除く肉食忌避の風潮が助長され、日本食のもつ独自性が保ち続けられた。

 

こうして、明治に至るまでの日本人は、獣肉への依存度の低い食文化を定着させ、穀物と野菜と魚介類、それに鶏肉を加えて、日本食の基本形をつくりあげてきた。牧畜・獣肉への依存度の低い日本人の食文化の伝統は、世界的にみてもかなり珍しいものなのである。

 

食材に感謝しつつ、箸を使いこれをつつましやかに食する日本食の伝統には、生きとし生けるものへの愛が受け継がれている。 

 

もちろん、私たちが自らの食のあり方を考えるとき、生きものの命への配慮もさることながら、自らの健康・栄養への配慮が必要になる。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じて、さまざまな種類があるということである。

 

たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たない」もの・「身体の外にある」ものであるとして、世にベジタリアンと呼ばれる人たちの大部分も、これを食することを容認している。これらの人々は、「ラクト・オボ・ベジタリアン」と呼ばれる。

 

また、乳製品と卵に加えて魚介類をも食する人たちは、「シーフード(フイッシュ)・ベジタリアン」と呼ばれることがある。また、乳製品と卵に加えて鶏肉を食する人たちは、最近では「チキン・ベジタリアン」と呼ばれることがある、

 

こうしたベジタリアンおよびセミベジタリアンの人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

ここには、日本人古来の食への思いが、今風に形を変えて生かされているといえるだろう。

 

 牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。                   

最近では、米・野菜・魚介類・鶏肉中心の、わが国伝統の食生活が、肥満や成人病を予防する健康食として、国内外の多くの人たちの人気を集めている。

    ガンジーの言葉

私たちは、暴力という大火災のまっただ中にいる哀れな存在であり、「生きものの食べ物は生きもの」という言葉には、深慮するべき意味がある。  

ガンジー語録』

聖書に語らえている「原罪」とはなにか

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「聖書」は、人類の始祖アダムとイブがエデンの園で「禁断の木の実」を食べたことによって罪を犯し、その罪のゆえにエデンの園を追われ、地上に追放されたと記している。そして、私たち人間は、皆、地上に追放されたアダムとイブの子孫であり、その罪を引き継いでいると記している。

 

私たち人間がみな罪の血を引き継いでいるという、この「聖書」の教えは、私たち人間になにを暗示しているのだろうか。このことについて、次のように理解してみることもよいのではないだろうか。 

 

私たち人間は、元来雑食性の動物であり、日々の食生活のなかで、植物性の食品とともに動物性食品の摂取が不可欠である。

 

自らの命・健康を維持するためには、他の生きものを自らの栄養源として摂取する必要がある。私たち人間の生命そのものが、他の生きものの命をなんらかの形で犠牲にすることの上に成り立っているのである。

 

他の生きものの命を奪わないでは生き続けられないという、この現実こそ、まさに人間が背負っている原罪なのではないだろうか。

 

人類の始祖アダムとイブが「禁断の木の実」を「食べること」によって罪を犯したのと同じように、私たち人間も、また、日常何気なく行っている「食べること」において罪を犯しているのではないだろうか。

 

それゆえ、私たち人間にとっては、いかにして、他の生きものの命に配慮しつつ自らの生命・健康を維持していくかが、深慮するべき重い課題である。

 

この問題の解決は、いつの日か、科学技術が高度に発達し、人工的に合成される動物性栄養素の開発・普及が実現する時まで待たなければならないのかも知れない。

 

ともあれ、現在を生きる私たちが、遠い将来の夢ではなく、現実の問題として自らの食のあり方を考えるとき、生きものの命への配慮とともに、自らの健康・栄養への配慮も必要である。

 

こうしたなかで、考えられることは、ひと口に「生きもの」・「動物性食材」といっても、そこには、感覚(痛みなどの感受性)や感情(恐れ・悲しみなどの感受性)の有無・発達程度に応じてさまざまな種類があるということである。

 

たとえば、乳製品と卵は「感覚や感情を持たない」ものであり、また、鳥類や魚介類は、哺乳類ほど高度には、感覚や感情が発達していないものである。

 

乳製品と卵は、「感覚(痛みなどの感受性)を持たない」もの・「身体の外にある」ものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

また、魚介類や鳥類も、哺乳類ほど高度には感覚や感情が発達していないものであるとして、動物性食材を忌避する人たちの多くが、これを食することを容認している。

 

こうした人たちに共通していることは、せめて人間に近い感覚や感情を持ち、人間に近い苦痛や恐れ・悲しみを感じている高等動物=哺乳類(四つ足の動物など)を食することだけは避けようとしていることである。

 

牛や豚などの哺乳類は、人間に近い豊かな感情を持ち、甘えてきたり、なでてやると喜んだりもする。が、こんにちでは、単なる「肉」として過酷に扱われ、そのことに文句も言えないまま命を終える。

 

牛は、ほんらい15年ほどの寿命があるが、こんにちでは、普通2,3年で屠殺場に送られる。ここで順番を待つ牛は、周囲の音や臭いから死を悟り、恐怖から全身をはげしく震わせ、目には涙をためているという。

 

豚の場合は、普通6ヶ月という非常に短い命を終える。最近では、わずか二人の人間の管理の下で、年間数千頭もの豚肉を生産するオートメーション化された工場すら増えつつある。こうした工場では、豚のいのちは、与えられる数キロの餌を1キロの豚肉に変えるための単なる「機械」のように扱われてしまう。

 

最近では、コメ・野菜・魚介類・鶏肉中心の食生活が、肥満や成人病を予防する健康長寿食として、国内外の多くの人たちの関心を集めている。

 

 

              

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